呪われた自動車

■ ベンツ540 塗装:赤
レンジローバー・イヴォーク

一人目の犠牲者 : オーストリア皇太子フェルディナンド大公夫妻
1914年6月28日、視察の為サラエボを訪れていたオーストリア皇太子フェルディナンド大公夫妻が、
歓迎パレードの最中に射殺された事件。「サラエボ事件」。 この暗殺事件をきっかけに、第一次世界大戦が勃発しました。

二人目の犠牲者 : ポチオレック将軍
その後、このパレードに同乗していたポチオレック将軍の所有となった。
将軍はオーストリア第五師団長の地位にあり、戦争が始まると陣頭指揮に立った。
だが、三週間のある戦いで大敗を喫し、
将軍は結局、この屈辱に耐え切れず、精神状態に異常をきたし、救貧院に入ったまま生涯を閉じた。
ベンツの所有者になって20日後に死亡。

三人目の犠牲者 : ドスメリア大尉
車を手に入れてからわずか九日後、ドライブ中にふたりの農民をひき殺し、 自らも車もろとも立ち木に衝突、首の骨を折った。
ベンツの所有者になって、僅か9日後に死亡。

四人目の犠牲者 : ユーゴスラビアの某州知事(怪我)
第一次大戦が終わると、赤いベンツは新生ユーゴスラビアの某州知事が所有する事になった。
州知事は赤いベンツを修復し運転していたが、4ヶ月の間に4回もの事故に見舞われた。
事故で右腕を失った知事は「この車は死神に取り憑かれている…」と恐れ赤いベンツを解体する事にした。

五人目の犠牲者 : サーキス医師
州知事の友人である医師が解体に反対したので、州知事は二束三文で赤いベンツを医師に売り渡しました。
路上で横転した赤いベンツの下から、圧し潰れた医師が発見された。
ベンツの所有者になって、半年後に死亡。

六人目の犠牲者 : オランダの宝石商
このころにになると、ようやくこの車がもたらす災厄が評判となり、宝石商は俄然、人々の注目を浴びることとなった。
なぜか、彼は突然、自殺したため1年後に再び売りに出されました。

七人目の犠牲者 : スイスのレーサー、サミレス
ある医師に引き取られましたが、ベンツの呪いを恐れたのか、患者がさっぱり寄り付かなくなってしまった為、
スイス人のカーレーサーに売却。現実主義者のレーサーは呪いなどは全く気にせず、アルプス・ドロミテのレースに
赤いベンツを改造して出場。しかし、そのレース中に横転、車から投げ出された障壁に激突して首の骨を折って即死。

八人目の犠牲者 : ドイツ人の実業家
ドイツの実業家もまた、石壁に衝突して命を落とした。ベンツを手に入れてから、わずか二日後だった。

九人目の犠牲者 : サラエボ農場主のコルシュ
コルシュは普通の車ではない事を理解していたため、注意深く運転し、数ヶ月は何事もなく過ぎた。
それがある朝、ベンツが急に故障してしまった。通りかかった荷馬車を呼びとめ、町まで牽引してもらうことにした。
ところがイグニッションを切り忘れていたため、牽引されたとたん、車のエンジンが始動。
車は荷馬車を弾き飛ばして暴走し、道路下に転落した。荷馬車の農夫までも、巻き添えとなり即死。

十人目の犠牲者 : 自動車修理工場の経営者のヒルシュヘルトと同乗者4人
壊れたベンツは自動車修理工場に運ばれ、経営者のヒルシュヘルトがそのまま所有者となった。
フルシュヘルトもさすがにそのままでは乗る気持ちにはなれず、ベンツの色を赤色から青色に塗装しなおした。
ある日、結婚式に参列する為、友人4人と青いベンツを飛ばしていたところ、突然車が暴走し、
対向車に正面衝突した後、乗っていた経営者と友人達合わせて5人が死亡

この車はこののち、オーストリア政府に接収され、ウィーンの博物館に贈られた。
だが、第二次世界大戦中に連合国の爆弾によって博物館とともに、破壊されたという。

 ■ ポルシェ・スパイダー550

レンジローバー・イヴォーク

映画俳優の伝説のヒーロー、ジェームス・ディーンがこの世を去ったのは1955年の9月30日。
彼はロサンジェルスからサリナスのカーレースに出場するため、
同乗者の自動車整備士ラルフ・ウッタリックと愛車のシルバーのポルシェ・スパイダー550
(カスタマイズして「リトル・バスタード」と名付けていた。)で41号線を走行していた。
1955年9月30日の夕方5時45分頃、分岐点(Y字路)前方から走ってきたフォードと正面衝突して首の骨を折り、即死した。

友人らはこの車に不吉な何かを感じており、アレック・ギネスもその一人で
「あの車に乗っていたら、来週には死体で発見されるかもしれない」と話したそうです。
また、専属デザイナーだったジョージ・バリスも「あのポルシェを視た時、とても嫌なものを感じたため、
サリナスには行かない方がいいいと云ったそうです。

事故車のポルシェ・スパイダー550は多くの部品は壊れていなかったため、ジョージ・バリスが残骸を買い取った。
未だ使用可能な部品を回収することにした。 しかし、運搬車から下ろす際に不意に落下し、作業員の足を骨折させた。

翌年1956年、2人の医師がバリスからエンジンとトランスミッションを買い取り、共に自分たちのレースカーに搭載した。
スパイダーのエンジンを搭載したウィリアムス医師の車はレース中にタイヤが外れ、居合わせた警官に怪我を負わせた。
もう1人のトロイ医師は、スパイダーのバックスイングアームを譲り受けたが、レース中にスピンし、樹木に激突し死亡した。

一方、ジョージ・バリスが所有していたボディはというと
カリフォルニア警察主催の交通安全キャンペーンに展示されることになり、各地をツアーすることになった。
1959年、スパイダーのボディを置いていた警察署のガレージで火事が起こり、崩れ落ちてしまった。
サクラメントの高校では、展示台からスパイダーのマウントが落ちて、高校生が重傷を負った。

数週間後、スパイダーはサリナスに送られることになったが、
その途中運搬車がスリップして衝突事故を起こし、運転手は外に投げ出されて死亡。

オークランドでは、トラックに積まれていたボディが突然2つに割れ、一部が道路に転がり、別の事故を誘発させた。
オレゴンでは運搬中、トラックのブレーキが故障し、スパイダーごと店に突っ込んで店舗を全壊させた。

1959年暮れ、ニューオリンズに辿り着いた時は、スパイダーのボディは11ピースまで分解されていて原型がなくなっていた。
それでもバリスは十分な時間をかけて修理しよう考えたという。

1960年、マイアミでの展示を最後に、今度は貨物列車で輸送することにしたが、
この輸送中、スパイダーの残骸(ボディ)は、忽然と消えてしまったという。
ただし、ベンツ540シリーズは、1936年にデビューした車であるため、1914年のサラエボに存在する訳がありません。
また、パレードで使用された車は、ベンツではなく
オーストリアの自動車メーカーGraef & Stift社のoffener Tourenwagen(製造期間1901年〜1918年)と言う車。
ウイーンの軍事史博物館に、博物館の目玉として、堂々と展示されており、赤色でもない。
信じるか信じないかはあなた次第です。